大自然と人間

ひょんなことから、僕はメープルシロップ作りに出合った。カナダのケベック州でではなく、青森県の十和田市で。

あまり知られていないかもしれないが、日本でも古くからアイヌの人たちや山伏などが日本各地に原生するイタヤカエデから楓糖と呼ばれるメープルシロップを作っていたそうだ。アイヌの文化では、おっぱいが出なくなるとイタヤカエデヤ(アイヌ語でトペニ)に祈り、幹に傷をつけて流れてくる汁を薬として飲んでいたと言う。それだけではなく米を炊くことにも使われたし、煮詰めて飴にしたりしていた。楓糖は、生活の中にあるものだったそうだ。

かく言う僕は、幼少より埼玉県南東部の平地の住宅地で育ち、森林とは無縁の日常生活を送ってきた。野球少年から美術大学へ進学し、絵画学科油画専攻を卒業。大学在学中より植木屋でバイトしながら森林生態学に興味を持ち、学校のある八王子という土地柄、山林に入るようになった。植木屋のバイトを続けながら作家活動を続けていく中で、海外にも滞在することがあった。しかし日本を知らずして行ったようなものだったので、母国を知らぬ恥を思い日本をもっと知る旅を続けている。

その後も森林生態学をはじめ、人類史や民俗学、林業の歴史、地形や植生を知れば知るほど、目の前にある風景の見え方が変わっていくことを実感していく。日本は面白い。

青森県十和田市にある十和田市現代美術館の開館にあたり作品を展示することになり、それまで縁もゆかりもなかった北東北へ行くようになった。開館からしばらくして、気になっていた八甲田山の森を散策するべく十和田に滞在した。滞在中に出会った地元の人に誘われ秋祭りに参加し、老若男女、職種も様々な人たちとの出会いと交流が生まれた。その中に地元の酒蔵の杜氏さんもいて、酒好きなこともあって仲良くなり、地元の人たちも巻き込み協働で米作りから酒造りをするプロジェクトを始めた。みんなで造ったお酒をみんなで飲むのは、最高に美味い。次に仕込むお酒は7年目。

かくして十和田の歴史民俗に興味を持ち、郷土館の学芸員(当時)であり市役所職員の大久保氏と知り合った。この出会いが、十和田湖畔のイタヤカエデから樹液を採取して楓糖(メープルシロップ)作りをすることに繋がっていった。

青森県・十和田湖畔では、1956年の冬に行われた青森営林局による楓蜜採取事業に発端を持つ(少なくとも、「現代の」と言う文脈では)。これは、管内の山林に自生するカエデ類から樹液を採取し煮詰めてシロップを生産するというもので、取り組んだ地域の中で採算が取れたのは十和田湖の東側にある宇樽部と子ノ口という地区だった。その後、宇樽部の農家だった大久保氏の爺さまたちが実際に樹液を採取し煮詰めて東京へ出荷していたそうで、自然保護が声高になる昭和40年代まで樹液採取は続いた。僕が携わっているメープルプロジェクトは、この過去の取り組みの再現と記録ということを目的に始めた。

樹液採取は、イタヤカエデの幹に穴を空けて出てくる樹液を採取するごくシンプルなものなのが、やればやるほど奥深く森を見ることができる。イタヤカエデという木は主要植生になることはほぼなく、純林を見ることはない。十和田湖畔の樹液採取をしている森の主要植生は、ブナ・ミズナラ。それらが林冠を形成し、イタヤカエデは隙間を縫うように枝を伸ばすため、ブナとミズナラの大木の中に見え隠れしている。

林床の起伏の上部に生育していることがほとんどで、凹地から生えているものは見られない。これは春になり木々が開葉していく中で、イタヤカエデが最後に開葉するからなのかもしれない。イタヤカエデの種子が発芽したあと、生き残るためには光合成が必要なので、陽のあたる可能性のある上部に生えたものが育ち、生存競争の中で残ったのではないかと思われる(イタヤカエデに関してもっと物語があるのだが、長くなるのでこの辺までに)。

十和田湖畔の森では樹液が出てくるのは主に3月。雪に覆われた森の中での採取になる。日中の気温がプラスになり、日照時間が多ければ多いほど樹液は出てくる。樹液は無色透明で、ほんのり甘い水だ。回収したあと、いつもこの樹液を沸かして淹れたコーヒーを飲むのだが、とても美味しくたまらない瞬間だ。雪に覆われた森の中へなど、目的もなく入る人はまずいないだろう。そこに安心はないのだから。しかし、樹液の味を知るだけで畏れは薄れ、恵みを与えてくれる森を愛おしいとさえ思うようになってくる。

日本を知る旅を続け、様々な地域の人や植生と出会うことで、自分の作風は変わってきた。都市のアトリエに篭って作品制作をしているだけでは本当に見たいものには辿り着かない。見たい何かを求める中で、作品は生まれていくのだと思います。それがどのような形のものであれ。

次の樹液採取では、どんな出会いが待っているのか。3月が、待ち遠しい。

※イタヤカエデの樹液採取事業は、国立公園であると同時に、文化庁の国指定特別名勝及び天然記念物に指定されている地域のため、文化庁から許可を得て実施しています。また、当該地は国有林内であるため、林野庁(所管営林署)からも許可を得て実施しています。