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TVで早口言葉をやっていて、
私が高校生の頃に流行った言葉を思い出し…。
親ゴルバチョフ
子ゴルバチョフ
孫ゴルバチョフ
意外と言えません(笑)
早いもので明日から4月です。
2011年3月は私の中で1週間ほどの記憶しかない感じです。
本当なら今日仙台を発って明日から千葉での生活になっていた筈。
引越業者も当面の目処が立たない理由で暫く仙台に残れる。
というか、正しくは「引っ越せない」(苦笑)
でも、こちらにいる時間少しでも復興の手伝いが出来る事を神様に感謝している。
もう見れないと思っていた榴ヶ岡公園の桜も見る事が叶う。
仙台の春を見納めて千葉に行く頃は初夏の頃。
色んな物事を見届けて、心置きなく引っ越したいな…。
久しぶりに見た〜☆
ちょっとテンション上がった♪(*^^*)
昨日、恩師と一緒に居たと思われるお母様のご遺体があがったと連絡が入った。
でも恩師はまだ見つからない。
申し訳ないほどこまめにご連絡を下さっているご家族の方達が
「そろそろ気持ちを決めなくちゃいけないと思ってるのですが…。」
と仰った瞬間、声も出せないほど泣き崩れた。
一番泣きたいのはご家族の方なのにと思いつつ。
私は24の時に母を癌で亡くしています。
病死はある程度覚悟も出来るし、お別れまでの時間があるから
「残念」と言える。
でも今回、事実上育ての母同然だった恩師との突然の別れ方は
「何で?無念だ…!!!」
この言葉以外出てこない。
「私ね、いつ死んでも後悔しない様に毎回レッスンでしっかり教えきる主義なのよ☆」
先生は後悔していないかも知れないけれど
まだまだ人生ひよっこの私は後悔ばかりだから…。
でも、何故か恩師の笑顔しか思い出せない。
「なに泣いてるの?あなた生きてるんでしょう!」
今にもそう言って現れそうで…。
ふと、気が付けば私の地域の小・中・高生で
いわゆる「ヤンキー」(死語ですか??汗)がいない。
と、いうか震災後非常にハツラツと挨拶をしボランティアなどで生き生きとした姿になっている事に気が付いた。
彼(彼女)らは実は人一倍優しい面をもっている。
ある意味何かしら心の痛みを知っている者が多いからだと感じる。
それが社会・家庭・学校からの疎外感だったり…。
理由はそれぞれだけど元々傷つき易い子達だから。
ボランティアには髪の色、背格好、成績なんて関係ない。
避難所生活の方達から必要とされ、それに応え「ありがとう」と言われる。
たったこれだけの事かもしれないけれど
「誰かに必要とされる。」
「自分も誰かの役に立てる」
これがきっと彼(彼女)らにとって今まで心の穴を埋められなかったものだったんじゃないか?とパパと話をしていました。
要らない人も物も無い!
頑張れ!!若者!!期待してるぞ!!!
今日、さやぴょん♪の中学校で卒業式がありました。
避難者の皆様には武道館に移って頂き
避難場所になっていた体育館で避難している皆様にも参列して行われました。
前日、避難所の皆さんは
「ご迷惑をお掛けしているのに参列させて頂けるのですか?」
とご謙遜なさったそうです。
ですが、今回の震災のお陰で
色んな人達に支えられる事を実感して送り出して頂き
有意義で素敵な式典となったのではないかと思います。
「将来、今回頂いた感謝の気持ちを忘れず、
人を救える、社会に役立つ人間になりたいです。」
避難所の方達はお身内を亡くされ、離れた場所からいらしてる方も多く、
色んな思いを重ねて子供達に「おめでとう!」と言ってくれました。
被災地のあちこちで一生忘れ得ない卒業式は一生の宝物となる事だと思います。
卒業生の皆さん、おめでとうございます!
二重あごになってました(悲)
ウェイトは増えていないのですが、
下を向いてばかりだからかな…。
今日から意識して空を見るようにしています!!
気仙沼大島は昔からライフライン復旧が宮城県でも一番遅いところなのですが、
震災から10日たった今日現在、飲料水もままならず
プールの水をろ過して飲んでいると知りました。
「幾ら離島だからって…被災したからって…
(ライフライン)復旧が遅いのは構わねえ。
んだども、プールの水飲んで生き延びてるのは俺らだけだ…。
何でこんな思いをしなきゃなんねえ?」
と、男性が泣いていました。
その時、飲んでいたコーヒー…申し訳なくて飲めなくなりました。
どうか一日も早く物資が届く事を願います。
震災10日目
まだこんな現実が被災地にはあります。
震災後、SPCで出会った方達から
「足りないものは?」
「○▽□…色々送る事が出来るから連絡頂戴!」
「体調は?薬は足りてる?」
等々、(個人的に)沢山のメールやお電話を頂き家族で日々感謝する毎日です。
まだ実際にお会いした事の無い方もいらっしゃるのに、
不思議な事に心は繋がっていると思えます。
本当に心強いです。
ありがとうございます!!
http://headlines.yahoo.co.jp/...
今日も朝から被災地に支援物資が届かない
司令塔のいない「日本株式会社」のもろさがTVから流れていました。
道路状況、ガソリンが困難で運べないなら
被災者を大型バス等で震災ホームステイさせた方が早いんじゃないかと思う。
我が家の近所にも空いている公務員宿舎なんか沢山ある。
学生街には少子化で空きの多いアパートも沢山ある。
老夫婦だけの過疎住宅地の空き部屋提供だって出来るはず。
民間だって国が借り上げれば幾らでも活用できる。
避難所認定数を増やせばいいだけの話。
雨風凌げて電気水道だけでも通っていれば津波被災の方達にとって
今よりは何倍も生きる勇気が湧くのではないかと思うし
略奪や争い事など凄惨な状況も回避できるのでは?と思う。
民間の善意で動けるには限度がある。
全ては国。
今日は暴風ながら天気がよく、
避難所やご近所の赤ちゃんがいる方達に家にあった哺乳瓶や清掃綿などを届けに行ったりしていた道中
いつもお世話になっているお店のスタッフに出会った時に伺った話ですが、
仙台市内でも灯油給油車が人々に道を塞がれ、
車を殴る、蹴るなどしドライバーさんも身の危険を感じる出来事があちこちであったそうです。
海沿いへの救援物資を運んだ際には暴動に近い奪い合いとなり
現地ではご遺体からも財布や金品を盗んだり
まだご遺体残る漂着した車からガソリンを抜いたり…。
「そんな光景を目の当たりにしてきてショックだった…。」
と、目頭を押さえながら堰を切ったようにお話なさってました。
物の貧困さより心の貧しさによって傷つけられる
一番切ない災害だな…と、私も胸が痛みました。
だって今日、道中、畑にいた見知らぬおじいちゃんに子供達が元気良く挨拶しただけなのに
「身体あったまっから味噌汁にして食え〜。」
て畑の葱2本頂いたばかりだったんですもの。
「御代を…。」と言えば
「こんな時はお互い様だぁ。」
って。
きっと今、暴動や窃盗の相次ぐ地域の人達だって
浜にいた時は気前良く誰かに何かを差し伸べていたはずなのに
誰のせいでもないけれど
「やり切れないなぁ…。」と思った一日でした。
私個人の思いです。
今、被災地で隣人が「じゃ、遊びに行ってくるね〜。」と、言われたら
複雑な心境になるのは当たり前だとして。
ここ暫くは国として物流等が混乱しているので
「日常」に戻るまでどの企業もイベント事は不可能な状況にあると思いますが、
ある程度日常に戻った後、マイナスからスタートになる私達の分頑張って頂けるなら
私達被災者がメンタル面を含め立ち直る目処が経たない分
他の元気な方達からパワーを貰って被災地は救われます。
元気じゃないと物資輸送も援助も出来ませんもの!!
わが身の事の様に心配していただける事は勿論ありがたいのですが、
電気がついた時の様に、
明るく光っているものを見て、私達自身の心も照らされ明るくなりました。
パワー不足の私達の分、
倍元気になって頂き、今後の東日本復興へもパワーを注いで頂ければな…。と思います。
皆さんの楽しいキャンプレポ見て、
他のみんなも「キャンプ行きたいな〜。」と思える日が来ると思います。
ただ、その楽しみの中からほんの少し何かを我慢した分
被災地を思って色々な形でご協力頂けるお気持ちがあれば幸いです。
しました(笑)
というのは半分??嘘で^^
左頬に昔から小さなコブみたいなものがあり、
私はさほど気にしていなかったのですが
「歳取ったら悪性になる可能性もあるよ。」と
とあるお医者さんに勧められ、引越し前に日帰り手術。
「日帰り部分麻酔だし〜♪」なんてお気楽に考えていたら
当初より倍の時間掛かかり出てきたモノも大きく…(@@)
傷も直線で10cm。8針ほどの縫い傷(><)
お嫁にいけなくなっちゃった…(苦笑)
11/4/3
初見から5回まで、噛みまくりました(笑)!
特に「子ゴルバチョフ」は、鬼門となっているみたいです!!
11/4/4
☆pic-さん☆
私は「孫」で噛みます(笑)
ダークホースです(爆)